実績とプロフィール - 近藤聡の認知症改善プログラム【老人脳ゼロ】解説ホームページ

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近藤聡の認知症改善プログラム【老人脳ゼロ】は、病院にも薬にも頼らず最短29日以内・1日5分自宅で簡単に改善する方法をお伝えします。

実績とプロフィール - 近藤聡の認知症改善プログラム

自己紹介が遅れました。私は近藤聡と申します。

最初は頭が真っ白になる感覚・・

私が初めて認知症・ボケの人間と出会ったのは、13歳の時でした。

3人兄弟の末っ子だった私は、兄達と年齢が離れていた事もあって毎日、祖父母の家へ遊びに行っていました。

でも、小学校の高学年になり塾へ通い始めると、だんだん訪問回数が減少して月に1回程度しか、行けなくなりました。そして、夏休みで部活の合宿と塾の勉強で忙しくなってしばらく会えなくて久しぶりに、1人で祖父母の家へ向かいました。

「おじいちゃん、こんにちは。」

「はい、どちらさんですか?私は今から仕事に行かないといけない。」

と言われたのです。私は何が起きたのか分からなくて、頭が真っ白になってしまいました。

すると、おばあちゃんがやって来て「ああ、聡くん。ごめんね、おじいちゃんボケちゃったの。」と言われました。何の事だか状況があまり掴めないまま、リビングの椅子に座って居心地の悪い時間を過ごした事を覚えています。

「ごめんね、おじいちゃんも年だからね。」と言われて、変に納得しました。

まだあの頃は純粋な中学生でしたから、学校やクラブ・塾に追われ忙しく、自分のおじいちゃんに時間を使っている余裕などありませんでした。ショックと無知によって、さらに祖父母と疎遠な生活を続けました。

そして、私はあの言葉を今でも忘れません。

「痴呆症なの。治らない。」
と母親に言われ愕然

あの日、家に帰って来た私は母親から「おじいちゃんは痴呆症なの。もう治らないの。」と言われました。そうです、母親は私にだけ祖父の変わりようを伝えること無く今まで過ごしていたのです。治らないという言葉に私はショックを隠しきれませんでした。

今まで頼りにしていた最愛の人を失った気分です。

母親の表情もだんだんと明るさが消えていくのが私は分かりました。当時は、老人ホームもほとんどなくて入所するには凄いお金が必要だったそうで、祖母ひとりで祖父を介護しなくてはいけませんでした。

たしか、それから1ヶ月後には母親の姉が祖父母の家で一緒に住み始めて介護の援助をしていました。

そして、1年が経過するとその叔母さんは軽い「うつ」状態になり、私の母親と交互に介護するようにまでなっていきました。

ウンチを家中に垂れ流すボケ老人のお世話

私たち子供には迷惑を掛けないでおこうとしていた母親たち姉妹は、本当に疲れ切っていました。祖母の76歳の誕生日という事もあって、私達兄弟は久しぶりに祖父母の家を尋ねました。

家へ入るなり、おばあちゃんの声が聞こえてきました。「おじいちゃん、ちょっと待ってよ。まだ終わってないんだから。」

ウンチを垂れ流しながら、リビングへやって来るおじいちゃんがそこにいました。

異臭とともに、唖然としました。一瞬空気が止まりました。すぐに母親が祖父を引きとめてトイレへ連れて行きました。兄弟は目を合わせる事はなく、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになりました。

母親達の苦労を初めて実感しました。私には出来ないという思いがとても強かったです。

祖父は、孫の顔を見る事なくソファーに座って「ウーウー。」言いながら、テレビを見続けていました。何をどうしてら良いのか分からず、ササッと誕生日ケーキを出して、歌を歌って、火を消して、食べて帰ってきました。

それ以来、もう祖父母の家には行きませんでした。

そして、そんな介護の苦労の中にある出来事が起きました・・

介護疲れで祖母が脳梗塞で緊急入院する事態

12月初旬の寒さが本格的に日本列島を覆い出した時期でした。

おばあちゃんが倒れたのです。救急車で運ばれた病院へ夜、仕事が終わった父親と一緒に向かいました。原因は脳梗塞でした。今まで無理をして介護をしていた我慢が耐えられなくなってしまいました。

祖母の意識は回復する事がなく、母親姉妹は病院と実家で認知症の祖父の面倒を交代でやっていました。クリスマスの5日前、お医者さんから「今夜が峠です。」と言われて家族全員で病院へお見舞いに行きました。

母親が「お母さん、お母さん、みんな来てくれたよ。」という声にも反応せず、ベッドの上で眠るように横たわっていました。

明日も学校があるので、私達は父親と先に帰る事になりました。あの車内の寂しい雰囲気は一生忘れる事は出来ません。小さな雪が降り始めて、窓ガラスが少し曇っていました。そして、ラジオからはクリスマスソングが私達家族を励ますかのように流れていました。

街の雰囲気があれほど寂しく、悲しく感じた事はありませんでした。

次の日の朝、起きると祖母が息を引き取ったことを知らされました。「おばあちゃんね、最後に目をかっと開いて「頼むね。」と言ったのよ。」と母親が話をしてくれました。

そして、

3ヶ月後、祖母を追いかけて天国へ行った祖父

おばあちゃんの遺体が実家に戻ってきて、通夜と葬式の準備が始まりました。私にとっては初めての家族の葬式です。父方の祖父母は私が1、2歳の時に無くなったので覚えていません。

通夜の時、おじいちゃんはずっと祖母の亡骸の横へ座っていました。認知症で完全に脳が壊れていても、自分が愛した人の死は分かるようでした。

「おじいちゃんね、おばあちゃんが死んだのは分かるのよ。」

そう母親が話していたのを思い出しました。あの祖父の姿は私は本当に悲しくて仕方ありませんでした。あわただしく葬儀が終わると、祖父は一人身と言う事になって老人ホームの入所が認められました。

3ヶ月後、認知症のおじいちゃんは脳をやられて、おばあちゃんの後を追うように死んでいきました。

母親姉妹は、おじいちゃんの死を悲しんでいるようには見えませんでした。ようやく介護の苦労から解放されたという、安堵感でいっぱいの表情でした。「これで良かったのよ。おじいちゃんも、おばあちゃんの所へ行けてよかったわ。」そう話していました。

認知症介護疲れは、人の死を簡単に受け入れてしまうようです。

早く死んで欲しい。

と認知症を持つ家族は思うようになるのです。

「絶対に親を認知症にはさせない!」

私は決意しました。

親に「死んで欲しい」と思うようになる自分が恐いです。でも、実際は介護の疲れで親を殺したりしている例はたくさんあります。

14年間で介護疲れ殺人・心中が550件
―日本福祉大湯原准教授まとめ―

高齢者虐待と介護疲れ殺人の研究で知られる日本福祉大学(愛知県美浜町)社会福祉学部の湯原悦子准教授(司法福祉論)は18日までに今年度分の調査結果を明らかにした。

それによると、介護に行き詰まって60歳以上の高齢者がその家族・介護者に殺害されたり心中したりする死亡事例(事件)が1998年からの14年間で国内において少なくとも550件発生し、計558人も亡くなっていることが判明している。その実態について湯原准教授は「(介護疲れ殺人の)実数はさらに多いはず」とも分析する。

この国において高齢者介護に限定した「介護殺人」事例の公式統計などは現状として存在しない。

一方で、2006年施行の高齢者虐待防止法に基づいて厚生労働省は介護をめぐる死亡事例を公表して、2010年度は全国で21件あったとしている。

しかし、昨年1月に認知症の妻(81)を夫(85)が殺害した横浜市栄区の事件では「虐待に当たらない」としてカウントされておらず、とてもその全体像はとらえ切れていないという。

この悲惨な事実を政府は調べようとしません。隠し続けているのです。

私も、介護で疲れたら最終的に殺人という手段を考えるかもしれません。その前には、必ず「早く死んで欲しい。」と思い続ける事でしょう。それでも、医療の発展でなかなか親は死んでくれません。

こんな人生だけは歩みたくないと思っていたのですが、私の決意は時間とともにどこかへ消えていきました。そうすると、

さらに、最悪な事態へ突入しました…

父親が肝臓ガンで大手術

ちょうど、私が35歳でした。

大酒飲みでタバコ大好きな66歳の父親が体の痛みを訴えて、夜8時ごろ救急車を呼んで病院へ運ばれていきました。

仕事から帰ってきて、すぐに母親から電話が掛って来て慌てて病院へ向かいました。父親は私たち家族の前では決して弱い所を見せようとはしませんでしたが、痛みに負けて自分から救急車を呼んだそうです。

それから、即入院しました。

末期ガンではなかったので、何時間もの大手術を受けてガンを摘出する事が出来ました。半年間の入院で改心したのか、あれだけ好きだったお酒もタバコも辞めてしまいました。

私は父親が死ぬかもしれないという状況になって、初めて真剣に親の介護を考えるはめになってしまいました。祖父の死から20年以上も経過しています。

そして、今度は母親が体中の痛みを訴えるようになりました・・

親を認知症にはさせない!

ほとんど運動をすることのない母親は、私を産んでからブクブクと太ってぜい肉の塊のような人間でした。

更年期障害なども乗り越えて、70歳手前になった母親は病院に通ったりせず、元気に過ごしていました。私も不思議な事だとは思っていましたが、やはり体中に痛みが出てきました。

・ひざ痛
・偏頭痛
・高血圧
・冷え性
・目のにごり
・腹痛

当時の私は医者でもない、ただのサラリーマンですからお金も無く医学の知識もありませんでした。仕方なく薬局に行って、症状を緩和する薬を大量に購入しました。

その箱には「コエンザイムで膝の痛みから解放!」と書かれてあったり、「血圧はすぐに落ちる。」と書いてあったり、私は母親の体の痛みもすぐに消えて行くだろうと信じていました。この時は、まだ私は薬信者でしたから、薬剤師の書いた処方を丹念に読み込んで指示に従いました。毎日、毎日、母親に薬を飲ませていました。

でも、何の変化も無いのです。

逆に、薬を飲んだ事で母親に違う症状が出てきました。「左の耳が聞こえない。」と言い出したのです。もう一度、処方薬の紙をよく読むと副作用として、耳への影響について書かれていました。さらに、薬のせいで眠気に襲われ続けて、まともに生活する事もできなくなっていたのです。

1週間後。

私は、薬を飲まないように母親へ言いました。方針を180度変えました。変えたと言っても、母親の症状が良くなるわけではないので、私はどん底へ落とされたような気分でした。一体、どうすればいいのだろう?なかば諦めてしまいました。

さらに、最悪な事態へ突入しました…

父親のガンが腎臓へ転移。そして、再手術...

転移が分かって、父親はすぐに病院へ入院する事になりました。

まだ、35歳なので、貯金も住宅ローンで消えてしまって100万円ぐらいしかなかったですが、なんとか個室を用意してもらい、医療保険を利用しながら手術を受ける事ができました。今回のガンは比較的小さかったので、傷もほとんど残らず1時間程度の手術でした。

最初にガンが転移したと言う話を聞いた時に、私は怒りを覚えました。

それは、父親は最初のガンの後から病院で処方される薬を飲み続けていたからです。それなのに転移して、再び手術を受けたのです。信じられませんでした。

2度の手術でやせ細った父親の体は、私が憧れていた父親ではありません。

1ヶ月後。退院した父親は、以前よりも強い薬を処方されていました。すると、頭痛と吐き気を毎日のように出てベッドから起き上がることさえ辛い状態になったのです。また、薬の副作用かと思いました。

それから3日後、病院で確認しました。副作用でした。

だんだんと20年前の介護疲れで無くなった祖母の気持ちがわかるようになってきたのです。何のためのお医者さんで、何のために数十万円を払って健康になろうとしたのか分かりません。医者の免許を持っている人間じゃないのか?怒りがこみ上げてきました。

この恐怖に耐える事は出来なくなり。もう私は本気になりました。

サプリメント・漢方・教材・30冊以上の本に数十万円を費やし失敗の連続…

今までの自分の知識を捨ててみようと思いました。

私の月収は手取りで30万円程度しかありません。嫁はパートで8万円でした。子供の養育費等も考えると貯金しないといけないのですが、親の体を何とかしないと認知症でボケ老人の介護をして最悪に苦しい生活がやって来て、人生が終わってしまう。

一度、以前に母親の症状を治すために購入した本は捨ててしまっていたので、もう一度近くにある本屋さんに行って認知症・ガン・医学に関する本をたくさん買ってきました。

私が今まで試した事がなかった漢方の本からやってみました。

インターネットで抑肝散(よくかんさん)という生薬を購入して、煎じて飲ませたりしました。1か月以上やらないと効果が無いというので、2か月続けました。ほとんど変化はありません。

Mixiというサイトの認知症・ボケ会にも参加しました。

同じ境遇同士なので話をするのは楽なのですが、駄目な方法ばかり教えてもらって、結局は愚痴を言い合うだけで具体的な解決策は見つかりません。「あの方法はダメだとか、あの先生は詐欺だよ。」と言われたりもしました。

さらに専門家の先生の教材も買ったりもしました。しかし、どの本や先生の話を聞いて具体的に実践しても効果がないのです。

最後は、「駄目なら病院へ行きましょう」と言われるだけです。何度も何度も母親を実験台にしてトライしましたが、体調を大きく変える事が出来ず、すべてを諦めかけていたのです…

「ある」偶然との出会い...

たくさんの本を読み、たくさんの先生の話を聞き、たくさんの方法を試してきました。たくさんの失敗、痛みを経験し、本当に多くの事を学びました。人の体を変える事がどれだけ難しいのかを学びました。

しかし、これに終止符を打つ事になったのです。

私は、「ある」ノートを見つけたのです。

高校生の時に私はニキビでとても困っていました。その時にモテようと思って、1年近く徹底的にニキビの対策を調べていた事があったんですね。友人のお母さんが美容の専門家だという事を知りました。

当時で40代後半だった人ですが、30歳ぐらいにしか見えないぐらい肌がきれいな人で、ビックリしました。

話によると女優さんなどの健康ケアなどをしている人らしくて、名前は覚えていませんがかなり有名な女優さんでして。あまりにも情報量が多くて、1回では終わらなかったので、その後数回通って詳しく聞きました。

私はすぐに全てを書きとって赤ペンで線を引いて繰り返し読みました。

私にとっては初めての方法だったのです。そして、言われるがまま実行してみると、ニキビが消えたんです。

それが書かれたノートを偶然、実家の大掃除の時に嫁が発見して、懐かしい思いでめくっていると「これは、ガンなどの病気にも効果がある」という記述にふと気が付きました。

それをヒントにして、早速調べてみると、アメリカの英語サイトに詳しく書いてあったので、すべてを印刷して辞書片手に翻訳しながら実践してみました。すると、

体の痛みが消えた・・・

母親に試して9日目の夜、自宅の電話が鳴りました。

「トゥルルル、トゥルルル・・・」

母親からでした。

「聡、お母さんだけど、体の痛かったのが無くなったわ。明日、久しぶりに病院へ行って調べてもらうわね。」

なぜか、いつもより元気な母親で声のトーンも明るかったのですが、「そんな日もあるだろう…」ぐらいにしか考えていませんでした。

さらに2日後、仕事で疲れて重い鞄を持ちながら、自宅へ帰ると母親の車がありました。家へ入ると、母親が走って来て私に病院の検査結果を持って来たのです。数値を見てみると、すべてが改善されていて血圧は50近くも下落していたのです。

聞くと、膝の痛みも消え、髪の量も増えて、肌ツヤもよくなり、頭痛もなくなり、体重も5キロ以上減ったと言うのです。

この時に気が付きました。

「治せた。」興奮が私の目を完全に覚ましてくれました。しかし、同時に認知症にはなるのではないかと言う恐怖心がありました。父親がガン手術をした時と同じように最低3か月は安心できないと思って、続けて生活をしてもらいました。もちろん、父親にもやってもらいました。

3か月が経過して、父親も元気になり庭の草抜きに精を出すなど、以前よりも元気で明るくなりました。ガン検診でも、転移も無くどんどん健康な状態に戻りました。母親は一日、孫と遊んでも疲れなくなりました。感慨深いもがありました。もうそれから3年経過していますが、親は健康のままです。

ここまでは私の家族の話です。

この方法があまりにも上手くいったので、嫁の両親にもやってもらおうと思いました。実は、嫁の父親は物忘れが多くて用事もなしに、スーパーに1人で向かって途中で帰って来る事を繰り返していました。「あの方法を使おう…」と決意して、同じようにやってもらいました。

すると、2週間後には変化が出てきたと義母から連絡がありました。会話がきちんとできなかったり、話の主語がなくて何を話しているのか分からなかったりしたのが、普通の会話ができるようになったのです。

ボケも治してしまった。

将来、もう誰からも家族の認知症で非難されないし、馬鹿にされない。今まで自信が無かったのがうそみたいです。お医者さんから「どうしてですかね。急に数値が良くなりました。理由は分かりませんが、素晴らしいですね。」と不思議がられたりもしましたが、「食事に気を付けただけです。」と話したら納得してくれて、それ以降は病院へ行かせていません。

私は堂々と仕事に打ち込む事が出来るようになったし、勇気も出て来て新しいアイデアが浮かんで新しい部署を立ち上げる事になりました。妻との間に、新しく子供も出来ました。息子2人と娘1人です。

私のノートの最後にはこう書いてありました。

「皮膚をキレイにする事なんて簡単。再び問題が起きないように健康管理を維持して下さい。そして、次はあなたの周りにいる人を助けて下さい。それがあなたへの授業料です。」

「そうだ。困っている人に教えよう!」

親戚・友人の親・恩師の認知症が次々と改善していった…

実際のところ、私のやり方はすごく自己流でした。そこで、認知症の家族を持つ人へ教える為に、考えました。

もっと簡単に認知症・ボケを解決する方法はないのか!?と…

最初は母親の健康を治す方法でした。「偶然、治ったんじゃないの?」そんな疑いの目を私は持っていました。なので、私はまずは友達の認知症のお母さんを治す事に集中しました。

私と中学・高校と同級生で、同じクラブに所属していた桐ケ谷くんに詳しいやり方をすべて書いた紙を渡して、毎日しつこいくらい電話連絡しました。

2週間後、彼の母親に異変が起こりました。

仕事中にふと携帯電話に目をやると桐ケ谷くんから11件も着信がありました。何かヤバい事があったのかと思い、すぐに電話を掛けてみると「聡。母親の様子が変わってきた。前より、しっかりしてきたわ。続ければ良いんだな。」「うん。」と答えました。これで他の人の認知症にチャレンジできると自信が出てきました。

義母と友人のお母さんの認知症が改善したのを知った、母親の兄の奥さんが情報を聞きつけてやる気マンマンだったのですが、少し不安もあったようです。もし失敗したらと不安なようでした。そこで、私は「失敗したら老人ホーム代は全部俺が持つ」と話してやる決断をしてくれました。

親戚の叔母さんのお母さんは80歳を超えています。私の祖父のような、完全な認知症にまでは発展していませんが、時々、自分の家族を他人と間違える事がありました。

スタートから5日後、変な行動がほとんどなくなったと連絡が入りました。友人の母親の時と同じです。

17日後に、私の家へ叔母が母親を連れてやって来ました。誰かの葬式で1回か2回しか会った事が無い人でした。私の顔を見ると「聡ちゃんだね。」と言って、私の名前を言って昔話をしてくれました。私は全く覚えていない事ばかりで、叔母さんは「ありがとうね。ありがとうね。」と言ってくれました。

私はいろいろな家族に囲まれて生きてきたと実感しました。

1ヶ月後ぐらいでしたか、母親が元気になったのを見ていた母親の友人の中で数人が、母親の話を聞いて私と会いたいと言ってきたのです。

次の日曜日に実家へ来いと言うので行くと、見知らぬ3人の女性と1人の男性が居ました。それぞれ、頭痛や膝痛があったり、夫がボケ・物忘れが悪化しているという状況でした。

母親が手書きで書いた改善法のレポートを見ながら、注意点とやり方をその場で行いました。そして2週間後にもう一度会いましょう!と言って別れました。

10日後の夜に私が夕食を食べている時に、携帯電話が鳴りました。母親からで「聡、ちょっと篠田さんに代わるわね。」と言われました。「聡さん、夫の状態が良くなったわ。ありがとう。また日曜日にね。」と言われました。

翌週の日曜日に、皆が再び集まりました。明るい顔をしていました。

「痛みがなくなりました。聡さんのやり方で。」

まさか?とあなたは思っているかもしれません。当然です。でも、本当に簡単な方法ですから、安心して下さい。1度話を聞けば誰でも出来るような方法にまで改良させました。

さらに、そこで私は今まで考えもつかなかった認知症・ボケ・物忘れへのアプローチの仕方、免疫力を高める方法、高血圧を一瞬で下げるやり方、再発を防止する方法、赤ちゃんのような内臓へ戻す方法を発見しました。これらの方法を用いると、まるで想像もつかなかった程の解決スピードが実現できるようになったのです。

そうしているうちに、知り合いの知り合いの知り合いにまで広がって、みんな1年以上苦しんだ認知症・ボケ・物忘れが治り始めたのです。

10年以上も老人ホームにいた87歳の女性は実家に戻りました。それから半年後に家族みんなで温泉旅行へ行って来たそうで、写真が大量に送られて始末に困った覚えがあります。

現在、どの人も順調に認知症・ボケ・物忘れが改善し、97%の人が再発せずに1年以上過ごしています・・


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